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5)-4【三法印(さんぽういん)の教え】

蓮4 

「諸行無常(しょぎょうむじょう)」・「諸法無我(しょほうむが)」・「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」を簡単に説明すると、次の様に成ります。


先ず三法印を簡単に説明すると、次の様に成ります。

(1)諸行無常(しょぎょうむじょう・無常印)この世の全てのものは、絶えず変化する、不変・無常なものは一切無いのである。

(2)諸法無我(しょほうむが・無我印)この世の全てに於いて、永遠に我物(自分自身や自分の行いや状況)は一切不変なものは無い。又はそのような実体は一切無いのである。それらに執着すると苦に成る。執着しなければ、こころは和らげられる。変化そのものこそ『私』であると言う事。

(3)涅槃寂静(ねはんじゃくじょう・涅槃印)-諸行無常(しょぎょうむじょう)・諸法無我(しょほうむが)をよく理解しこころで受け止める事が出来れば、こころには悩み苦しみは一切無く、安らかな(幸せ)涅槃の境地に至(いたる)のである。

これに次のものを付け加えると、四法印と成る。
(4)一切皆苦(いっさいかいく・苦印)-この世の全てのものは、苦るしみ(自分の思う様には成らない)である。

仏教の始め頃の小乗仏教時代である、初期仏教(部派仏教・上座部仏教・南方仏教)においては、同じ様な教えは有るが、「三法印」という言葉は用いられていないのです。また、その意味も、元々は四念住(しねんじゅう・四念処)と同じで、「止(し)と観(かん)」の修行すなわち瞑想によって、涅槃の境地に至る迄の、精神的な過程・段階を表わしたもとされて居ました。
「三法印」は、大乗仏教で説かれているものです。しかし、大乗仏教においては、かなり変質・混乱・拡大解釈した意味や用法で用いられる様に成った宗派があります。

「三法印」という言葉が最初に使われたのは、訶梨跋摩(かりばつま)の著作の、『成実論(じょうじつろん)』で用いられたのが、最初と言われています。
『成実論(じょうじつろん)』の巻一に、「仏の法の中に三法印あり、(その法は)一切無我との諸法のと(煩悩の境地を離れ、悟りの境地に入ること。)となり。この三法印は、一切論者の壊(かい)する事あたわざるところなり、真実なるを以(もつ)てなり、故に清浄調柔なりと名付けるなり」と有ります。次に解り易く、詳しく三法印のそれぞれの教えを、説明していくと共に、後に付け加えられた一切皆苦(いっさいかいく)を含めた四法印も学びましょう。

お釈迦様は、29歳で釈迦国の太子の地位を捨て、6年の厳しい修行の後、35歳で悟りを開かれました。(修行期間は正確には6年半の言われている)悟りをひらかれた後、まず最初に共に修行した人の仲間達(この5人が釈迦の最初の弟子達)に、先ず正法を説かれました。
それが初転法輪(しょてんほうりん)と言う最初の説法で、『三法印』で、「諸行無常(しょぎょうむじょう)「諸法無我(しょほうむが)「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の三つの真理を説かれました。
お釈迦様の教えの根本道理は、この世の道理、仕組みをしっかりと心に持ちなさい、と言う三法印(三つの真理)の教えでした。

悟りを開かれてから45年の間、その悟りで得た尊い教えを説いて各地を巡られ、80歳の生涯を終えられる際の最後の説法も、次の様に三法院を説かれました。
「生まれたものは必ず死ぬのであって、誰しもが諸行無常(一切は変化する)の道理に逆らう事は出来無い。それゆえ諸法無我(一切は所有出来無い)の道理を悟って、欲を少なくしなければならない。そこに涅槃寂静(とらわれの無い永遠の安らぎ)に入る悟りが有るのです」
と説かれました。

お釈迦様は涅槃(死亡)の前に、集まった人達に別れを惜しんで、最後の説法を次の様に説かれて居ます。
「生まれたものは必ず死ぬのであって、誰もが諸行無常(全ては変化する)の道理に逆らう事は出来無い。それゆえ諸法無我(私のものと思っても、それは変化し私の諸行やものの実体は無い)の道理を悟って、欲を少なくしなければならない。そう自覚し受け入れれた時に涅槃寂静(とらわれの無い永遠の安らぎ)に入る悟りが有るのです」
と、最後の説教でも三法印を説かれたそうです。

お釈迦様は,それまでインドで行われていた難行苦行の修行を否定し,苦行主義にも快楽主義にも拘(こだわ)らない,中間的な生き方の『中道思想(ちゅうどうしそう)の考え方も説かれました。
「中道思想」とは、一方に片寄らない大体真ん中という意味では無く、その時々の条件や状況に合った、最善の方法や見方や考え方で、もの事を行うと言う事です。一方に拘らない行動や生き方をする事が、大切であると説かれています。この中道思想の実践は、次の道諦(苦を乗り越える為の実践法)の八正道を実践する事により、ものごとの片寄った執着を無くする事が出来ると、教えられています。

★三法印とは、三は三つで、法は仏(釈迦)の教えで、印は印章・仏教基本の仏経と言う意味で、仏教の基本と成る三つの教えと言う事です。普光(ふこう)と言う『倶舎論(くしゃろん)』の研究者は、『諸法を印するが故に、法印と名づく。この印に順ずるものは成り、もし、この印に違うならば、即ち仏説に非ずと言って、三法印を基準として、経典の仏説非仏説を正すべきである』と、言っています。

★転法輪(てんほうりん)とは、法輪を転じること。転梵輪(てんぼんりん)ともいう。釈尊が説法して人々の迷いを砕くことを,戦車が進んでいって敵を破る事に例えたもの。現在のインドの国旗にある輪は,この法輪をデザインしたもの。

★悟りを開くとは、『人は如何にしたら幸せに成れるか』を理解し、真理を見付ける事。『あ-そうだ』と気づいた事を言う。

★真理とは、何時どんな所にも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。根本道理も同じ意味である。

★小乗仏教と大乗仏教についてお釈迦様が入滅されてから100年~300年後頃に、お釈迦様の教えを文字通り忠実に守ろうとした人々と、説かれた教えの心を生かして実践行を行おうとする人々の集団に分かれていきました。お釈迦様の教えを文字通り忠実に守ろうとした人々の集団を、部派仏教あるいは小乗仏教と呼びました。お釈迦様の教えの心を中心に実践しようとする人々の集団を、大乗仏教と呼んでいます。現在は、全て大乗仏教と成っています。

大乗・小乗の乗と言うのは、「乗り物」という意味です。私達の迷って居るこの世界(此岸・しがん)から、悟りの世界(彼岸・ひがん)に渡してくれる教えを、大きな乗り物に例えて「乗」と言うのですが、大乗は大きな乗り物で、僧侶を中心に多くの信者も一緒に乗る乗り物の意味です。

小乗は小さな乗り物で、自分自身が修行する為の僧侶中心の乗り物を意味します。後に大乗は優れた乗り物、小乗は劣った乗り物と言う意味にとらえ、大乗の人が小乗の事を軽蔑して言っていた時期もありました。現在では、小乗という言葉を使わずに、部派仏教あるいは長老派仏教・南方仏教などと呼んでいます。大乗と言うゆえんは、人々は皆迷って居る存在ではあるが、必ず仏になる種子(魂)を持っております。だから自分よりも先ず他人の幸せを願って、共に仏様の教えに従っていこうとする、菩薩の道を説くところから、「大きな・深い・より優れた教え」と名づけられたのです。これに対して、小乗では、仏様はお釈迦様だけで、他の者は声聞(しょうもん)とか、阿羅漢(あらかん)という位にしか成れないとする考え方です。

小乗仏教では、綺麗に咲いている花を見て美しいと思うのは迷いであると説くのに対して、大乗仏教は美しい花を見て美しいと感じるのは迷いではない。しかし、その美しさに心を奪(うば)われ、囚(とら)われてはいけないと説くのです。このように、小乗仏教は、人間の欲望などは迷いの元として、厳しく自分を律するのに対して、大乗仏教は物事に囚(とら)われない、おおらかな心と、まず他人の事を考えようと言う、目を外に向けての立場をとります。

お釈迦様死後500年後の世紀頃におこった仏教の二大流派の一つ。古来の仏陀の教えを拡大し新しい解釈を加えた教派で,自分ひとりの悟りの為ではなく,多くの人々を理想世界である彼岸に運ぶ、大きなすぐれた乗物という意味で,みずからの立場を大乗仏教と呼んだのです。

 それでは、三法印についてもう少し詳しく説明しましょう。

(1)諸行無常(しょぎょうむじょう)(諸行無常印・しょぎょうむじょういん)

諸行(しょぎょう)とは、この世の一切の存在するもの・全ての行いと言う事です。
無常(むじょう)とは、不変のものは無く、絶えず変化して居ると言う事です。
この世の全てのものは、絶えず変化し、不変・無常(変化せずに留まること)なものは一切無いのである、と言う教えです。

「この世の全てのものは、変化して居るので有るから、衰退(すいたい)や消滅は 必ず生じる、それらの変化を理解し受け入れば、苦しみから遠ざかる事が出来る」、と言う教えです。
この世に存在している全てのものは、姿も本質も常に流動的に変化するもので有り、一瞬と言えども同じ状態や状況で存在する事は、出来無いと言う事です。

涅槃経(ねはんきょう)に、諸行無常(しょぎょうむじょう・この世の万物は常に変化して、ほんのしばらくもとどまるものは無い事)是生滅法(ぜしょうめっぽう・生命の有るものは、 何時かは必ず滅びて死に至ると言う事)生滅滅已(しょうめつめつい・生死を超え て涅槃(ねはん)に入る事)寂滅爲樂(じゃくめいいらく・迷いの世界から離れたなら、心安らかな悟りの境地が、楽しいもので有ると言う事)と有り、これを諸行無常偈(しょぎょうむじょうげ)と呼んでいます。
(空海によって説かれた『いろは歌』は、この偈を読んだもので有ると言われています。また、平家物語の最初の句も、この意味を表している。)
「諸行(しょぎょう)は無常(むじょう)であって、これは生滅(しょうめつ)の法であり、生滅の法は 苦でる。」この半偈は流転門に有ります。
「この生(しょう)と滅(めつ)とを滅し終わって、生無(しょうな)く滅無(めつな)きを寂滅(じゃくめつ)とする。 寂滅(じゃくめつ)は即(すなわ)ち涅槃(ねはん)なり、是(こ)れ楽(らく)なり。」と有ります。
「為楽(いらく)と言うのは、涅槃楽(ねはんらく)を受けると言うのでは無く、有為(うい・直接原因や間接原因によって成立した事物)の苦に対して寂滅を楽と言っているだけである」と有り、後半偈(こうはんげ)は還滅門(かいめつもん・流転門の反対)に有ります。

『生滅(しょうめつ)の法』(生じたり滅したりする事に付いての教え)は、苦で有るとされていますが、生滅(しょうめつ)するから苦なのでは無いのです。生滅(しょうめつ)する存在で有るのに、それを常住(じょうじゅう・常時一定で変わり無い事-不変なもの)なものであると観(み)るから、苦が生じるのです。
この点を忘れてはならないとするのが、仏教の基本的な教えです。

なお涅槃経(ねはんきょう)では、この諸行無常の理念を基本として、この世においては、仏こそが常住不変(じょうじゅうふへん・変化しないで存在する)であり、涅槃(ねはん)の世界こそ「常楽我浄(じょうらくがじょう)であると説いておられます。

★常楽我浄(じょうらくがじょう)とは、涅槃(ねはん)の世界の四つの徳。常は恒常的であること,楽は静かな楽しみ,我は自在無碍(むげ・自由で何ものにもとらわれないこと。),浄はらかな事。 即ち、どんな時でも、何物にも囚(とら)われず自由な心は、静かで楽しく、非常に清らかな世界で有ると言う事

★涅槃(ねはん)とは、一切の悩みや束縛から脱した、円満・安楽の境地を言う。仏教で理想とする、仏の悟りを得た境地を言う。

(2)諸法無我(しょほうむが)(諸法無我印・しょほうむがいん)

諸法(しょほう)とは、この世の全ての物(一切)を言い、私自身や私の諸行のもの事で有ります。
無我(むが)とは、実態が無いと言う事です。すなわち私自身や私の諸行するものや状況の一切は、絶えず変化し、固定したものでは無い。

この世の全てに於(お)いて、永久な我(が・自分や自分の諸行や状況)は一切無いので有る、と言う教えです。
私自身や我(が)の諸行や状況には、一定の状態(変わらない状態)で永久に存在するのではなく、絶えず変化して居るのです。その様な肉体や心や物質や状況の全てのものに、執着や思い込みを持たなければ、苦しみは和らげられる、と言う教えです。
この世の現実存在は全て、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬と言えども同じ状態で、存在や保持する事が出来無い事を言います。

この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法(ういほう・因縁によって形 作られたもの)です。この内容は、全ての存在には、主体と言う『我(が)(私自身や私の諸有する一切のもの)が無い事を言います。
先に述べた様に、諸行無常と言われる様に、一切のものは一刻々々変化しているのです。
しかし、我々は、『変化を繰り返し続ける中に、変化し無い何者かをとらえようとしたり、自分に関係無いものだけが変化してゆくのだ、と考え様としますその変化の主体を想定して、それを(が)と言います。
我とは、『常一主宰(じょういつしゅさい)(常とは常住、一とは単独、主宰とは中心と成って支配する事)のものと言われ、つまり常住である単独者として、何かを支配するものを指します。

古来インドには、変化するものの中に、主体としての変化しないものを想定した、『有我論』(うがろん・神等の変化しないものとする理論)と言う考え方が有りました。ところが釈迦は、『存在とは現象として顕(あら)われるので有り、変化そのもので有り、変化する何者かと言う主体をとらえる事は、間違いである』と、指摘されています。
その様に私達は、妄想(もうそう)された(ものは絶えず変化するのに、不変と想う事)『我(が)』に執着するのです。
この執着を破る為に『諸法無我』が説かれたのです。
これは一般に有我論が説かれている最中に、釈迦だけが主張した、仏教の特色で有ります。諸法無我は、インド在来の実体的な『我』の存在をも否定し、『我』を含む全ての存在は、『実体』では無い事を主張したのです。

我々人間は、知らず知らずの間に、自分自身の現存在を通じて、幼い時から成長し現在に至(いた)る迄に、肉体や精神の成長変化を認めながも、そこに『私』と呼ぶ実体的『我』を想定し、成長変化してきた自分そのものをとらえて、私は私であると考えています。
しかし、『諸法無我』では、それこそ我執(がしゅう・自分中心の考えにとらわれて、それから離れられない事。人には常住不変の実体があるとする誤った考え)であるとして退け、変化そのものこそ『私』なのだと、説いているのです。
この意味で、『諸法無我』は、私達は自分だけの力で、この世に存在して居るのでは無く、常に周りや他人との関係によって生かされて居ると言う、縁起の事実を知り、生きる事を教えて居るのです。

『全てのものは一人では存在しえない、多くの縁のおかげで存在する』と言う事と共に、『一切(全て)のものは、常に不変のものとして 存在する、『我』としてと捉えられるものは一切無い』と言う考え方 を、徹底して自分についても深めなければならない、と教えておられます。

自身や目に見えるもの見え無いものを含めて、一切の縁起によって生かされて居る現実を、又生きる事を教えられています。
この様に周りとの関係により、生かされて生きて居ると言う自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きが生まれるのです。

(3)涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)(涅槃寂静印・ねはんじゃくじょういん)

涅槃(ねはん)とは、一切の悩みや束縛から脱し、円満・安楽で理想の仏の悟りを得た境地に到る事。
寂静(じゃくじょう)とは、煩悩(ぼんのう)を離れ、苦しみより解脱(げだつ)したこころ安らかな状態を言います。

煩悩(ぼんのう)の炎が消えた悟りの世界(涅槃)は、静かで安らかな境地で有ると説かれています。涅槃寂静は、三法印の一つとして、仏教が他の教えと根本的に違う事を教えられています。
諸行無常・諸法無我の内容を理解し、受け入れる事で、この涅槃寂静の境地に到ると説かれています。
無常と無我とを自覚して生活をする事こそ、煩悩を全て寂滅(じゃくめつ・煩悩の境地を離れ、悟りの境地に入ること)する事の出来た、安住の境地なのです。
『大般涅槃経(だいはんにやきょう)』においては、この娑婆(しゃば)世界の無常・無我を離れたところに、真の「常楽我浄(じょうらくがじょう)が有るとされています。
無常の真実に目覚めない者、無我の事実を知らないまま自分を自覚して居る者、刹那(せつな)主義(一時的な快楽を求めようとする考え方)の生き方をする者や、無常や無我を知る事によって、逆によりどころを失い、よりどころとしての常住や自我を追い求め、苦悩して生きて居る者も、いずれも煩悩による『苦』の生き方なのです。
それらを克服(こくふく)して、一切の差別(しゃべつ・全ての物が平等で有る事に対し、上下や善悪等を持つ特殊な考えの事)と対立等の格闘(かくとう)の末に、一切が本 来平等で有る事実を自覚出来た境地に至った時、それこそが悟りで有 る『涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)』であると教えられています。
仏教本来の意味からすると、涅槃とは一切とらわれず、辺見(偏見-かたよった見方・いわれ無きかたよったとらわれ)から解放された、絶対自由の境地であります。
これは、『縁起の法』に生かされて生きて居る私達が、互いに相依相関(そういそうかん)の関係に有る事の自覚で有り、積極的な利他活動と自覚し、行動しなければならないのです。この意味で、この『涅槃寂静』は、仏教が他の教えと異なるものとして、法印と言われるのです。

四法印 (しほういん)

(4)一切皆苦(いっさいかいく)(一切皆苦印・いっさいかいくいん)

四法印(しほういん)とは、大乗仏教において仏教の教えを特徴づける三つの考えの三法印の教えに後から「一切皆苦印(いっさいかいくいん)を加えたものです。
しかし、漢訳経典の原典では「一切行苦」を説いているものが、ほとんど無いのです。
『瑜伽師地論(ゆがしぢろん) 』の四法嗢拕南(いだなん)説で、「一切諸行皆悉是苦(かいしつぜく)」と説かれています。
これが、初期経典にいわれる「一切は苦なり」をうけたものである事は明らと言われています。
「色(この世で形あるのも)は苦なり。受・想・行・識も苦なり。」と言うのがこれです。これは元々、初期仏教においては、止観(しかん)によって涅槃の境地に至る過程の一段階(瞑想)、とされています。

しかし、後の大乗仏教、とりわけ北伝の中国仏教・日本仏教においては、こうした初期仏教の止・観の方法(瞑想)論・概念が、しっかりと継承されなかった事も有り、元々こうした止観の行法(瞑想)と密接に結び付いていた「一切皆苦(いっさいかいく)」の意味・内容が、変質・拡大解釈される事と成ったのです。

「苦」の原語は、パーリ語のドゥッカ(dukkha)で、これは単に、日本語の「苦しい」という意味だけではなく、「不満」や『思い道理に成らない』と言ったニュアンスを持つ事を以前説明しました。
だから言い替えると、この私達の生きる世界(世の中)は思いどうりには成らない事ばかりであると、言う意味です。これを理解すれば、思いどおりに成らなくてもそれが当たり前と想える様に成るのです。

阿毘達磨(あびだるま)の文献によれば、苦は「逼悩(ひつのう)」の義と定義されています。
逼悩(ひつのう)とは、圧迫して○○○○○に悩まされる、と言う意味です。
この苦には二つの用法があります。
一つは楽や不苦不楽に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれる時の苦です。これは日常的感覚における苦受で有り、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられる事もあります。
しかしながら、精神的苦痛が苦で有る事は言うまでもないが、楽もそれが壊れる時には苦と成り、不苦不楽も全ては無常であって、生滅変化を免れる事が出来無いからこそ苦で有るとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦と言います。
すなわち、どちらの立場にしても、苦では無いものは無いわけで、一切皆苦と言うのは、実はこの意味です。精神の苦について、憂( う・自分の思うように成らないで、つらい。苦 しい。ある状態を不愉快に思う。わずらわしい。気が進まない)・ 愁(しゅう・うれえる。うれい。)・嫉妬などをあげています。また、肉体的な苦は種々の病などであると言っています。
四諦の中の苦締でも、説明しています。

お釈迦様は涅槃(死亡)の前に、集まった人達に別れを惜しんで、最後の説法を次の様に説かれて居ます。
「生まれたものは必ず死ぬのであって、誰もが諸行無常(全ては変化する)の道理に逆らう事は出来無い。それゆえ諸法無我(私のものと思っても、それは変化し私の諸行やものの実体は無い)の道理を悟って、欲を少なくしなければならない。そう自覚し受け入れれた時に涅槃寂静(とらわれの無い永遠の安らぎ)に入る悟りが有るのです」と、最後の説教でも三法印を説かれたそうです。

お釈迦様は,それまでインドで行われていた難行苦行の修行を否定し,苦行主義にも快楽主義にも拘らない,中間的な生き方の『中道思想(ちゅうどうしそう)』の考え方も説かれました。
中道思想」とは、一方に片寄らない大体真ん中という意味では無く、その時々の 条件や状況に合った、最善の方法や見方や考え方で、もの事を行うと言う事です。一方に拘らない行動や生き方をする事が、大切であると説かれています。

★瑜伽師地論(ゆがしぢろん)とは、表題は「ヨ-ガ行者の階梯(かいてい・学問・芸術などの手ほどきした書物。入門書。学問・芸術などを学ぶ段階)についての論」の意味で、100巻より成り、四世紀頃に兜率天に住む弥勒(みろく)菩薩の説を聞いてチベットの無着(むちゃく)が著したと言われて いる著書と伝えられいる。漢訳は唐の玄奘訳(げんしょう)であり、瑜伽行者(ヨ-ガの実践者)の修行や悟りの境地などを説き,唯識中道の道理を宣揚する。瑜伽論。瑜伽行(yogaacaara)の観法を詳説したものである。

★三法印とは、三は三つで、法は仏(釈迦)の教えで、印は印章・仏教基本の仏経と言う意味で、仏教の基本と成る三つの教えと言う事です。普光(ふこう)と言う『倶舎論(くしゃろん)』の研究者は、『諸法を印するが故に、法印と名づく。この印に順ずるものは成り、もし、この印に違うならば、即ち仏説に非ずと言って、三法印を基準として、経典の仏説非仏説を正すべきである』と、言っています。

★転法輪(てんほうりん)とは、法輪を転じること。転梵輪(てんぼんりん)ともいう。釈尊が説法して人々 の迷いを砕くことを,戦車が進んでいって敵を破る事に例えたもの。現在のインドの国旗にある輪は,この法輪をデザインしたもの。

 ★悟りを開くとは、『人は如何にしたら幸せに成れるか』を理解し、真理を見付ける事。『あ-そうだ』と気づいた事を言う。

★真理とは、何時どんな所にも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。 根本道理も同じ意味である。

(4)道諦(どうたい)(苦を滅する(乗り越える)実践法)

釈尊は苦を滅する道について、本当に苦を滅する道は苦から逃れよう と努力する事では無く、正しく物事を見る「正見(しょうけん)」・正しく物事を考える「正思(しょうし)」・正しく物事を語る「正語(しょうご)」・正しく行為する「 正行(しょうぎょう)」・正しく生活する「正命(しょうみょう)」・正しく努力する「正精進(しょうじょうしん)」・正しく念ずる(想う)「正念(しょうねん)」・正しく心を決定させる (安定させる)「正定(しょうじょう)」の、八つの道「八正道(はちしょうどう)」を実践する事だと説かれました。

また以前述べた様に、八正道はものごとの片方に拘らない生き方をする為の実践法でもあります。

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《幸福塾:法話 道しるべ》

はじめに
1)幸福とは何か
2)お釈迦様の基本的な教え
3)お釈迦様について(お釈迦様の生涯)
4)お釈迦様がされたお話の一つ
5)-1 お釈迦様の基本的な考え方
    -2 中道思想
    -3 四諦(したい)
    -4 三法印
    -5 八正道(はっしょうどう)
    -6 六波羅蜜(ろっぱらみつ)

6)お釈迦様の基本的な考え方


<光福寺の内容>

光福寺について
光福寺の由来
名前の由来
ご本尊
光福寺の果たす役割(目的)

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<活動内容>

瞑想の会
写経の会
お悩み相談(カウンセリング・セラピー  他)
祈願(商売繁盛・家内繁栄・願い事)
厄除け・お祓い(厄年の祈祷・新築お祓い  他)
供養(回忌・先祖・水子・星供養・施餓鬼)
各種占い(結婚の相性占い・商売の占い  他)
近況報告


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