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5)-5 八正道(はっしょうどう)

蓮7 

釈尊は「苦」を滅する(苦から解放される)方法(道諦・どうたい)として八つの正しい道を解き明かされました。これは、涅槃(悩み苦しみの無い世界)に達する為、私達仏教徒が日常生活で守るべき八つの正しい実践行の事で,原始仏教以来説かれる仏教の代表的な修行方法です。八聖道とも書きます。
 八正道とは読んで字の如く、人間が正しい生き方を実践する為の、八つの方法を言います。
八つとは,(1)正見(しょうけん)・(2)正思惟(しょうしゆい)・(3)正語(しょうご)・(4)正業(しょうぎょう)・(5)正命(しょうみょう)・(6)正精進(しょうしょうじん)・(7)正念(しょうねん)・(8)正定(しょうじょう)の、八つを言います。

 釈迦は,それまでインドで行われていた苦行を否定し,苦行主義にも快楽主義にも走らない,中なる生き方,すなわち中道を主張しましたが,その具体的内容として説かれたのがこの八正道であります。

 これらすべての方法に「正」の字がついていますが、「正」とは「真理に合った・調和のとれた考えや見方・行動」をさします。
自分本意(小我)にとらわれて、自分自身を過大評価し、不平・不足・不満などの苦の種をつくらない、大きな立場で物事を判断出来る人間に成る為の修行として、教えられたのです。
また、ものの見方には、現象に現れた差別の見方や、大きな立場からの「平等だけの見方」のどちらに偏っても、正しい見方とは言え無いのです。
ではなぜ「平等」の見方だけで正しく無いのかと言う疑問が湧くかも知れませんが、物の本質として、現象に千差万別の差別の実相(ありのままの姿)を現すには、それなりの原因や条件が有り、理由があるので、それを無視する事は出来無いのです。
このように差別の見方にも偏(かたよ)らず、平等の見方にも偏(かたよ)らない、両者を総合したとらえ方が、本当の「正しい」見方やとらえ方となります。

 八正道の語句を簡単に説明します。

(1)正 見(しょうけん)…一方に偏らない、正しいものの見方をする。
(2)正思惟(しょうしゆい)正しい思考・考えをする。
(3)正 語(しょうご)正しい言葉(いつわりの無い)で正しく語る。
(4)正 業(しょうぎょう)正しい行為・行動をする。
(5)正 命(しょうみょう)正しい職業で正しく生活をする
(6)正精進(しょうしょうじん)身心を整え、健康に留意して、正しい努力をする。
(7)正 念(しょうねん)正しい集中力・信念を持ち、希望に燃えて生きる。
(8)正 定(しょうじょう)以上の事を常に正しく守れる様に身心を落ち つけ、正しい精神統一をする。(精神の統一は、瞑想により行うのです)

の八つの正行の事です。

お釈迦様は,それまでインドで行われていた苦行を否定し,苦行主義にも快楽主義にも走らない,中間的な生き方の『中道思想』や『三法印』の考え方を説かれましたが,私達仏教徒が日常生活で行う具体的な実践法の内容として説かれたのが、この八正道です。
この八つの正行を少し詳しく説明していきます。

1)『正 見(しょうけん)

 これは正しくものごとをありのままに見極めると言う意味ですが、これは非常に誤解している人が多いのです。
『ありのままに見る』と言う事には、違いは無いのですが、では『ありのままに見る』とはどの様な事かと言うとになります。普通の人は『ありのままに見る』とは、自分の好き勝手に見ると、言うふうに思うでしょうが、そうでは有りません。人間は、なかなかありのままには物事を見られ無いのです。
森羅万象のものは、全て一刻一刻と変化しているのですが、人間はそう思いたく無いのです。
例えば、物質だって目の前にある限りは何も変化せずに有る様に見えますが、ほんとは微妙に化学変化して存在して居るのです。
長い目で見れば、新しい物だっていつかは古く成っていくでしょう。

ところが、人間は、自分の持ち物や道具にしても、古く成ってほしく無く、変化を嫌うのです。
例えば、何か計画を立てる時も、国を発展させる時も、あるいは勉強する時だって、全て今のまま存在していくと言う仮定に基づいて、準備や行動をしています。でも、事実や物ごとはそのまま存在するのでは無く、常に変化しているのです。一定では無く常に変化する、つまり無常と言う事を認識して見なければいけないのです。これが正見の基本です。だが私たちは正しい見解を持っていないのです。
 今の世の中を創りだしているのは、正しい見解では無く、全ての物事は存在する、私も存在するという立場で創っているのです。
私たちが生きて居ると言う事は瞬間瞬間変化して居る事で、それを無常と言って存在の定義に成って居るのです。 変化する事こそ存在なのですが、私たちはそれを認めたがらないのです。変化を嫌うのです。ところが、変化を停止すると言う事は死を意味すると言う事実に気が付かないんですね。正しい見解と言うのは、無常と言うものを認める心を持つ事、それが正見の基本です。

★十善戒の不邪見(ふじゃけん)の事です。

★お経の十善戒とは、不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不綺語(ふきご)・不悪口(ふあっこう)・不両舌(ふりょうぜつ)・不慳貪(ふけんどん・ものに執(とら)われない、貧欲(どんよく)の事)・不瞋恚(ふしんに)・不邪見 (ふじゃけん・正見 の事)の十の戒(いまし)めとして教えられています。

★戒めとは、失敗したり同じ過失を繰り返さないように,前もって注意を与える事で、仏道にはいった者の生活を引き締めるおきての事。

2)『正思惟(しょうしゆい)

自己本位に偏(かたよ)らず真理に照らし、物事を考える事です。

例えば
 ①貧欲(どんよく・自分だけの為に貪る心)
 ②瞋恚(しんい・自分の意に添わないと怒る心)
 ③愚痴(ぐち・不平、不満などの邪心で小我を通すよこしまな心)と言う、「意(い・心や思いの事)の三悪」を捨て去り、物事を受け止めて考える事です。
これは、(どん)・瞋(じん)・痴(ち)の三悪の煩悩の事です。

 『正思惟(しょういゆい)』は『正念(しょうねん)』と混同されやすいので、正念と一緒に後に詳しく説明します。

★十善戒の(こころ)戒め不慳貪(ふけいどん)不瞋恚(ふしんにん)の事です。

 3)『正 語(しょうご)

恒に正しい言葉使い、真理に合った言葉使いをする事です。

では何をもって正しいかと言う事に成りますが、社会生活の上で慎(つつし)まなければならない事で、
 
①妄語(もうご・嘘をつくこと。法を会得していないのに会得したように言う事)
②綺語(きご・口から出任せのいいかげんな言葉、言葉を巧みに偽り飾ること)
③悪口(あっこう・根拠もなく言葉によって他人の名誉などを傷つける行為、悪口)
④両舌(りょうぜつ・都合や立場で使いわける二枚舌の事)と言う、「口(こう・言葉の事)の四悪」を行わないと言う事です。

他人を傷つけず他人の為に成る言葉、平和で調和のとれる生活が出来る言葉使い、と言う事です。真実を伝える言葉と言っても、間違いは無いのですが、時として真実を言う事は、相手を傷つける場合も有りますから、話をしたり文章で伝える場合も、その言葉が人間を幸福にすると言う認識でされなければ、意味が有りません。

★十善戒の口(こう・言葉の事)の戒め 不妄語(ふもうご)・不綺語(ふきご)・不悪口(ふあっこう)・不両舌(ふりょうぜつ)の事です。

4)『正 業(しょうぎょう)

本能に任(まか)せるままの生活では無く、仏の戒めにかなった正しい行いをする事です。

仏が戒(いまし)めたのは、
①殺生(せっしょう・意味なく、或は楽しみの為に生き物の生命を絶つ事)
②偸盗(ちゅうとう・他人の物を盗む事)
③邪淫(じゃいん・道ならぬ色情関係)と言う、「身(しん・身体や行動の事)の三悪」です。 すなわた正しい行い・行動と言う事です。
この場合もそう狭義にとらずに、他人の迷惑にならない、他の生命の妨げに成る事をしてはならないと、言うふうに解釈したほうが良いでしょう。


★十善戒で、身の戒めの不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫(ふじゃいん)の事です。

5)『正 命(しょうみょう)

これは仕事の事と思って良いでしょう。
私達は、生きる為には何かしら働らかねばなりませんが、その場合自分の職業や仕事が、何か人間の命に貢献するもので無くてはならないのです。
毒を作ったり、武器を作ったりする職業は、仏教では禁止しています。
ですから仏教徒で無くとも、釈迦尊の教えを学ぼうとするので有れば、職業にも神経を配る必要が有るのです。
衣食住その他の生活財を正しく求める事で、人の迷惑に成る仕事や、世の中の為にならない職業によって、生計を立ててはならないと言う事です。

6)『正精進(しょうじょうじん)

正しい努力をする事です。普通の努力と違って、仏教では自分の今持っている悪いところを消す為の努力の事です。

①未だやった事はない悪い事を、今後も絶対にしないと言う努力。
②過去の行った良く無い事は、今後は絶対しないと言う努力。
③自分の持っている良い面を、今後もどんどん伸ばしていく努力。
④今まで行なわ無かった良い事を、今後は積極的にやっていく努力。努力にもこうした四つの努力の道(修行)があるのです。

精進とは、「良い人間に成る為、より立派な人間形成への努力」と言う事に成るのです。
自分に与えられた使命や目指す目的に対して、正しく励み、怠りや脇道にそれたりしない事です。
物事に囚(とら)われ過ぎたり偏(かたよ)った精進は、かえって逆効果に成るのです。

励みや努力や頑張ると言う事は、『焦(あせ)らず急がずゆっくりと、今行うべき事を、正しいく前にむかって、確実に行う』と言う事です。

 7)『正 念(しょうねん)

 『正念(しょうねん)『正思惟(しょうしゆい)は似通っていて、よく混同して解釈がされていますので、この二つの違いを説明しておきます。

『正思惟(しょうしゆい)には、無害心(むがいしん)・無瞋恚(むししんい)・無貪欲(むとんよく)の三つが有ります。

①無害心(むがいしん)は、生きとし生けるものに対しての、害の無い心と言う事です。
私達は勉強する事も、研究する事も自由に行って良いのですが、行う前に先ず、その勉強や研究が、人類や生物の自然を害さ無いか、そう言う者の命を守る事に成るかを、念頭に置かなければならないと言う事です。
生きとし生けるものに対して、どうすれば助けられるか、どうすれば慈しみを持った考え方を、見いだす事が出来るかと言う事です。これが無害心です。

②無瞋恚(むしんい)は、怒りの無いと言う事です。
怒るという事は、誰もが悪い事と解っていますが、人間は時として、例えばスポーツ等で相手を憎んでその怒りで闘うと言う様に、怒りを支えにして頑張る事が有ります。あるいは木を伐採する時なんか、その木が邪魔だからと言って伐(き)ってしまったり、悪い虫だからと言ってすぐ殺してしまったりしますが、そう言う気持ちで物事を行ってはならないと言う教えです。

③無貪欲(むとんよく)は、欲の無いと言う事です。
怒りの基は、結局自分の行いたい事を邪魔されるから怒る、つまり心の底に欲望と言う物が有るのです。もちろん人間がこの世の中を生きていく場合には、色々の物のが必要に成ってきますが、「お金は幾らでも欲しい」とか、「クルマは何台有っても良い」と言う様に、際限なく欲望をつのらせてしまいます。貪欲と言うのは余分な欲という意味ですから、その余分な欲の為に人間は大変な苦労や悩みを背負い込む事に成っているのです。 これが正思惟の三つの考え方で、これらのものを無くすれば安らかな慈悲のころに成るい言う事です。ここには『一切皆苦(いっさいかいく)の教えが有るのです。

『正念(しょうねん)』とは、仏と同じような正しい(真理に合った)心を持ち、小我(自己本位)による分別をせず、ものごとの真実の実相を見極め、心を常に真理の方向へ向ける事です。
『正念(しょうねん)』は、原語でsamma-sati と言って、サティとは気づくと言う意味です。何に気がつくのかと言うと、「今の自分に気がつく」と言う事です。瞬間瞬間の自分に気づく事なのですが、自分に気がつく為には、精神統一をしなければ成りません。
この修行は、瞑想によって行うものです。
そこで『正定(しょうじょう)』つまり、精神統一の状態で、自分に気づく事です。
ですから正念とは、実践法なのです。(ブィパッサナ-(気づき)瞑想) 自分に気がつく事から始めて、仏教究極(きゅうきょく)の悟り、解脱(げだつ)→涅槃(ねはん・悟りを得る事)まで進む事ですが、この涅槃に至る道は、正念の一方通行の一本道なのです。

この正念の実践を詳しく教えたものが、『中阿含経』に出てくる『四念住』に、次の言葉が有ります。
「人間の全ての憂(うれ)(未来において良く無い事に成るのではと心配する事。心を痛める。)や悲しみ、悩みを無くしたいと願うなら、実行して下さい。
生きとし生けるもの全てへの、人々の清らかな心を創る為、即ち解説する為に、なさって下さい。涅槃の道に入りたいならば、それしか実践の方法は無いのです。涅槃や解脱を得る為にはずっとこの一つの道しか無いんですよ
「四念住」とはそこに(その修行に)止まって下さいと言う意味です。
この修行方法は、瞑想修行の『止』の事です。

四念住の四種類とは、『身念住』・『受念住』・『心念住』・『法念住』を指します。
私達は色々考えて物事を見るから、本来有るべきでは無いものまでを見てしまうのです。映画がいい例なんですが、映画は、フィルムの一コマ一コマに停止した画面が有り、それが膜に写っているのです。
私達は、その瞬間瞬間変化している画面を、これは動いて居るのだと頭(思考)を働かして、動いて居る様に見ているのです。
真理(真実)は、動いて居無いのです。 ところが、私達は余計な考え方を働かせる(思考する)から、真理が見え無く成ってしまうのです。

だから、『今の瞬間の自分に気ついて、そこに留(止)まりなさい、それ以上先きに行ってはいけません』、と言うのが「四念住」の意味です。
解り易く言うと、『今の瞬間には無いものを、考えたり想像して、悩みや苦しみや不安を生じて居るのです。今の瞬間の自分を良く観て気づきなさい。今の瞬間には、その様な悩みや苦しみや不安は無いはずです』と、言う事です。
瞑想修行の『止』と言う事と、今の瞬間をしっかり『観』ると言う事です。

修行の方法としては、体から覚えさせていく事です。
人間はまず体に執着しています。「私は寒い」というのは体が寒いと言う事でしょう。「私」と言うのは肉体の自分を指すのです。
ですから先ず、肉体から実践しようと言う事に成る訳です。
実際のやり方は『正定(せいじょう)』の説明にも成る様に、瞑想を行う事なのです。
瞑想の『止』・ブィパッサナ-瞑想-気付きの瞑想がこれです。

8)『正 定(しょうじょう)

正定とは、心の状態が真理に照らし、正しい状態に定まる事です。
心に決めた決心が、外的な要因や変化により迷わされないと言う事です。
即ち『正定』の実践方法は、瞑想そのものです。

それではこの実践方法である瞑想を、簡単に説明します。

(1)静かな場所に、力を抜いてゆったらと背筋は伸ばし、座ります。
椅子に座っても行っても可能です。
身体の力を抜く時は、息を吐く時に、先ず首の力を抜き、次に肩・腕の力を抜き、次に膝(ひざ)や足の力を抜いていきます。

(2)座ったら、軽く目を閉じ、最初に全ての息を吐き切り、直ぐに鼻からゆっくり息を吸います。息を吸い終えたら、少し止める。(吐く息を整える為に)
吸った息の3~4倍の時間を掛け、口からゆっくりと息を吐き出します。
息を吐く時は、息を全て吐き切る様にしましょう。
呼吸は必ず腹式呼吸で行って下さい。
この呼吸を7分~10分程度行うと、自然にこころが落ち着いてきます。
今、自分は、非常に落ち着いていると観じて下さい。

このモヤモヤが何か等は、考え無い事。(思考の停止が大切)
(ここが瞑想の『止』と言うところです)


(3)こころに何かモヤモヤしたものが残っている時は、吐く息と供にこころの モヤモヤの全てを吐き出し、こころの中がカラッポに成る迄続けて下さい。

(4)今の瞬間には、『自分のこころの中には何も無く、安らかなこころで有る』事を、観(かん)じて下さい。
『こころに悩み・苦しみが無く安らかな事は、幸せで有る』と、観(かん)じて(自覚)下さい。(ここが瞑想の『観』と言うところです。)

最初は観る事が難しいなら、その様に想って下さい。

(5)次に、命の事を思います。
『自分が今こうして生きて居られるのは、命のお陰である』事を感謝して下さい。これからの呼吸は、吐く息・吸う息はゆっくりと同じ時間にして下さい。

 次に、下記の言葉をこころで念じて下さい。

①私が幸せで有ります様に、
②私の悩み、苦しみが無く成ります様に、
③渡の願い事が叶います様に、
④私に悟りがあらわれます様に、(解脱、涅槃により生じる)、と念じます。

また、今の自分がこうして生きて居るのは、周りの人達のお陰でもありますから、自分の親しい人・関係のある人・周囲の人、皆んなが幸せでありますようにと、次の様に念じてます。
『私』の主語を、『私の親しい人々』に変えて①~④を念じます。

さらに、自分を生かしてくれている、自分の周りの全ての生きとし生けるものの、幸せも念じます。 主語を、『生きとし生けるもの』に変えて①~④を念じます。
(ここが瞑想の『慈悲の瞑想』と言うところです)

(6)瞑想を終わる時は、必ず次の動作を行って下さい。(覚醒・かくせい)
目を閉じたまま、息を吸いながらゆっくり両手を上げ伸ばして下さい。次にゆっくり息を吐きながら、手を下ろして下さい。
この動作を3~5回繰り返して下さい。


この瞑想法は心をリラックスさせると供に慈悲のこころを育てます。少しづつやっていくと良いのです。最初は上手に出来なくても、継続すると必ず出来る様に成ります。

よく、『こんな事はしてはいけない』、とか『無我の境地に成れ』等と言いますが、そんな事は、最初の内は到底(とうてい)無理な事です。
それに、無理に自分を抑えると言う事は、それだけで今の自分の認識では無く成ってしまうので、無我の境地に成ろう等とは決して思わない事です。

大切な事は、ブィパッサナ-(観察と気づき)と言う事とです。
つまり、ありのままの今の瞬間の自分を観ると言う事です。

瞑想して居ると、必ず雑念が沸いて来ます。これらは深層心理に有るものが自然と浮き出て来るのです。これらは『気づき』に繋がりますから、最初は雑念が沸いたと感じるだけにして、再度呼吸に集中しましょう。
例えば、座って居ると足が痛く成ってきたりします。そうしたら、「今私は、足が痛い」と観察するのです。
痛いと思うのでは無く、痛い自分を観察するのです。 痛いと言う感覚が有りますから、それは「ただ痛いと感じて居る」と言う認識で良いのです。
また人間は、静かにして居ると色々な事を考えますから、考えを否定するのでは無く、「あ-今自分は考えて居る」「あ-今余計な事が心に浮かんだ」と言う様に、なるべく短いセンテンス(短い言葉)で手放してしまうのです。
イメ-ジとしては、「心の中にラベルを貼ってしまう」と考えると良いかも知れません。もし怒りが出てきたら、「怒り」とラベルを貼ってしまうと良いのです。
ちなみに怒りと言うのは、仏教で言えば「いやだ」と言う事に成るのです。 坐っている時に「立ちたいな-」と思ったら、それは怒りを意味するのです。 言い換えれば、「怒る人」から「怒りを観る人に」、「悲しむ人」から「悲しみを観る人に」へと、転換するのです。

これが八正道を実践する冥想法の第一段階です。

ところで私達は毎日毎日24時間、死ぬ迄生き続け、行動して居るわけですから、四六時中サティ(気づき)の修行をしてほしいのです。
勉強して居ても、仕事をして居ても、家でテレビを見て居る時でもです。
例えば、歩いて居る時なら、余計な事を考えずに、左足と右足が交互に動いて歩くわけですから、「右・左・右・左」と言葉に出して歩くのです。
それが精神統一につながって、やがて色々な智恵に恵まれ、苦しみ、悩みが必ず消えていきます。

 次に私達仏教徒が日常行う正しい道(修行)の『八正道』の更に上の実践業(実際に行う修行)で有る『六波羅蜜』について、少し詳しく説明します。 この『六波羅蜜』は、菩薩道とも言われ、私達仏教徒が仏に近づ、回りの人々と共に悟りを得る為に行う修行です。

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《幸福塾:法話 道しるべ》

はじめに
1)幸福とは何か
2)お釈迦様の基本的な教え
3)お釈迦様について(お釈迦様の生涯)
4)お釈迦様がされたお話の一つ
5)-1 お釈迦様の基本的な考え方
    -2 中道思想
    -3 四諦(したい)
    -4 三法印
    -5 八正道(はっしょうどう)
    -6 六波羅蜜(ろっぱらみつ)

6)お釈迦様の基本的な考え方


<光福寺の内容>

光福寺について
光福寺の由来
名前の由来
ご本尊
光福寺の果たす役割(目的)

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<活動内容>

瞑想の会
写経の会
お悩み相談(カウンセリング・セラピー  他)
祈願(商売繁盛・家内繁栄・願い事)
厄除け・お祓い(厄年の祈祷・新築お祓い  他)
供養(回忌・先祖・水子・星供養・施餓鬼)
各種占い(結婚の相性占い・商売の占い  他)
近況報告


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